ホームへ

エスロンパイプの
“根っ子” を探して

第1部 積水化学創業の記憶

旧ダイビル
旧ダイビル

積水化学創業前夜の物語

1946年7月、戦地から戻って日本窒素の営業部に復職していた野崎 城之助と三成 利夫のもとに「日本窒素が生き残る道を調査報告せよ」との指示が届きました。
それは水力発電を基盤として国内外に事業を展開してきた日窒コンツェルンが、戦後の可能性をプラスチック製品加工(1941年、塩化ビニルの製造開始)と合成繊維に見出し、その領域に大きく踏み出そうとしても旧財閥活動制限の壁に阻まれ、果たせないことへの打開策をまだ30歳前後の若い2人に託そうとするものでした。
その頃、日本窒素が拠点としていた大阪・中之島の旧ダイビル(宗是町一番地、現在の中之島3丁目)の一室に机を並べ、検討を重ねた野崎と三成は、その年の10月『日本窒素の第2会社となること』と『日本窒素海外工場からの引揚者の救済を計ること』の二つを眼目として「積水産業株式会社創立趣意書」を起草しました。

創業メンバー
創業メンバー

2組の“七人の侍”と8人目の侍

2人の案は海外から引き揚げてくる多くの社員の処遇に行き詰まっていた日本窒素社内の賛同を得、また積水会や積水寮の存在など日窒マンにとって会社の愛称と言えるほど馴染み深い「積水」の2文字を冠した社名が共感を呼び、「積水産業創立準備委員会」が正式に発足することになりました。
この時、積水産業創立準備委員会に名を連ねたのが、野崎と三成を含め、後に“陰の七人の侍”と呼ばれる吉岡 喜一、石野 猪之助、田鍋 健、入江 寛二、長阪 精三郎です。彼らは日本窒素の関係事業所に創立趣意書を送り、またスシ詰めの列車で日本窒素の本拠地、水俣徳山に飛んで賛同者を募りました。
しかし日本窒素営業会議に提案するも1度目は否決。2度目の提案の折、当時、日本窒素東京事務所長の職にあってのちに積水化学初代社長となる上野 次郎男(1951年日本窒素常務より就任)の採決で資本金10万円(当時の最小資本金)の新会社としてスタートすることになりました。
そして1947年3月3日、春の日差しが堂島川の川面にきらめき、ビルの壁に白く揺れる旧ダイビル5階の2部屋(日本窒素フロアの一部)に「積水産業」が化学工業製品の製造・加工・販売の旗を掲げて産声をあげました。
その時、日本窒素を飛び出して新会社に身を投じたのが、野崎 城之助(設立時常務取締役。のちに専務取締役)、三成 利夫(同取締役。のちに専務取締役)、杉田 求(のちに常務取締役)、福本 正雄(同取締役)、北村 太三郎、中島 茂雄、秋山 健一(のちに取締役)の7名で、同志的結合で結ばれ、創業期の辛苦を共にした彼らのことを“七人の侍”(上野が初代社長に就任するまで社長を置かず合議制で運営)と敬意を込めて呼びます。
さらに今一人、野崎らが新会社の運営資金を得るべく日本窒素社内に設置し、実質的な商事活動を行っていた「積水互助会」の運営を支えてきた伊藤つた子が加わり、この伊藤を含めて“八人の侍”と呼ぶこともあります。(この頃、日本窒素の帰国組受け入れや事業展開のため、積水産業のほか墨水産業、日本薬品化成、日本特殊化成、協同化学など多くの会社が誕生しました)

イゾマ機がモデルの国産初の射出成形機
イゾマ機がモデルの国産初の射出成形機

潜水艦で運ばれてきたISOMA射出成形機

初めは日窒製品の販売。まだ工場も生産設備もなかったのです。七人の侍と海外工場から引揚げてきて新会社に合流した者たち(創業1年後の社員約70名)は酢酸ビニル樹脂製の櫛や釦、さらにはチューインガムやアイスキャンディー(心斎橋筋に出店)などをガムシャラに売り歩きながら工場が持てる日を夢見ていました。夢にみていただけではありません。
「プラスチックの工業化には、どうしても高度な研究開発が欠かせない」そう考えた彼らは、創業から半年も経たないうちに京都市御池通にあったN産業の染料研究所を借り受けて京都化学研究所(1947年7月。今の京都研究所とは別の場所)を立ち上げました。その熱意が天に通じたのか、生産設備を手に入れる機会が意外に早く訪れます。
京都研究所設立の直後、日本窒素が戦時中の1943年に購入し、ドイツの潜水艦で運ばれてきたインジェクションマシン「ISOMA」(イゾマ。加熱シリンダーを装備した1オンス1/4の自動射出成形機でポケット櫛などを生産。戦後の物不足の時代にあって日本窒素の稼ぎ手となっていました)をモデルとして名古屋の機械メーカー・M製作所に発注していた国産初のイゾマ型インジェクションマシン20台を譲ってもいいと言ってくれたのです。夢をかなえる好機。
資金も販路も工場用地さえも手探りの中で、彼らは1台65万円もするインジェクションマシンの購入を決断しました。
流石に20台全部は無理で、その時、購入できたのは半分の10台でしたが‥‥。
ウイスキーメジャー 1947年10月、1オンス機5台が完成。M製作所の工場の片隅を借り受けて『名古屋工場』と呼び、そこにマシンを据え付けての生産(酢酸ビニル樹脂)が始まりました。その記念すべき最初の製品は、ドイツの潜水艦でマシンとともに運ばれてきたイゾマ金型から生み出されたもので、ウイスキー用の小さなコップ。ワンショット、つまり一杯分の酒をそそげるカップです。
そのイゾマ金型は『名古屋工場』でのインジェクション稼働の日、応援の人員とともに日本窒素から贈られたもので、その後、積水化学創立40周年(1987年)の折、記念の「ウイスキーメジャー」を復元製造するもとになりました。
また、この日本窒素が購入した射出成形機をモデルに完成したISOMA型射出成形機は、その後の射出成形加工業発展の礎となったことが高く評価され、2014年、日本化学学会によって現存する最古のISOMA型射出成形機(旭化成ケミカルズ)とISOMA金型(積水化学)の二つともに化学遺産(第027号)として認定されました。

奈良市南京終町にあった京終工場
奈良市南京終町にあった京終工場

奈良の京終に初の自社工場を開設

翌1948年1月、奈良に初の自前工場となる京終工場を開設。
念願の生産体制を手にしたのを機に、社名を積水産業から積水化学工業に改め、同年10月、仮住まいの『名古屋工場』から射出成形機(ナデム1OZ機)を移設しました。
京終(きょうばて)はJR万葉まほろば線(桜井線)で奈良駅の隣の「京終駅」周辺の地名で、当時の写真を見ても印象的な煙突とともに線路が映り込んでいます。
今の京終駅界隈からは想像もつかないことですが、開設当時の工場の周りは戦災を免れてなお草茫々の野っ原でした。
その京終工場は1957年、平城京の一郭、朱雀大路を跨ぐ形で完成した奈良工場(平城宮跡の国営公園化に伴い、2012年から2019年にかけて大和郡山に移転)に役割を引き継ぐことになります。
また、この年のうちに大阪の泉尾工場(1948年8月開設。1971年開設の堺工場に可塑剤や接着剤などのプラント生産を継承)や京都御池工場を開設。
まさに積水の勢いをもって生産設備拡充に邁進する年になりました。

PVA(ポバール皮膜)製ハンドバッグ
PVA(ポバール皮膜)製ハンドバッグ

櫛、釦から電話機やビニロン靴下まで

この頃の主力製品は、ナデム1オンス機による成形品で釦や櫛、万年筆の軸。そして化粧品・医薬品のキャップなどのネジ付き製品です。
また独自の製造技術で開発したセロハンテープ(泉尾工場で開発。1953年開設の尼崎工場で本格製造)やてんとう虫マークのポリバケツ(1957年奈良工場)がセキスイの名を世間に広めました。 このセロハンテープの開発段階で日本窒素の水俣工場から譲り受け、泉尾工場に設置した酢酸繊維素用のテスト酸化機2台による酢酸ビニル樹脂の製造が積水化学の化学工業たる最初の一歩となり、原点となりました。 (セロハンテープの粘着剤としての酢酸ビニル樹脂には冬場の粘着力低下の問題があり、天然ゴムをベースとする方法で商品化に成功したのですが、酢酸繊維素はその後の中間膜の開発につながりました)
一方、京終工場や奈良工場の成形事業は射出成形機の大型化が進み、電気通信省電気通信研究所の依頼を受けて開発し、工業技術庁長官賞を受賞した割れない電話機(京終工場)やS電機の要望により米国ワトソン社の16オンス機、32オンス機を入れて開発したラジオのキャビネット。
また、S社のトランジスタラジオケース、M電機と提携開発した扇風機の羽根など次々とヒット製品を生み出し、特注品事業の家電業界参入が実現したことにより飛躍的な発展を遂げました。
このラジオのキャビネットに初めてピンポイント・ゲート(射出成形における金型のゲート方式の一つでピンゲートともいいます)を採用したのですが、上手くいかずに困っていたところ、それまで黙って見ていた金型設計の担当者が現場で手直しを指示。たちまち成功するというようなこともありました。ごく初期の射出成形機は信じられないほど機械トラブルの連続で、工務担当を初め現場の人間の誰もが習熟したプロでなければ円滑な操業など望めなかったのです。
また機械的なトラブルではありませんが、金型取り付けの際のボルトの締め方、その力加減ひとつでバリが出たり出なかったり。ベテランと新人の差が製品に直結する中で誰もが技術を磨き、誰もがプラスチックで日本一、世界一になろうとの夢と気概を持ち、開拓者魂を燃え上がらせていたのです。
こうしたヒット商品の他に会社の将来を見越して合成繊維ビニロンの事業化に邁進。高槻にあった合成一号公社(合成繊維学会の権威・桜田 一郎先生の業績を実業化すべく戦後につくられた組織)に社員4名を派遣して研究を手伝い、約1トンの原糸を得てT紡の富田工場で紡織。
S産業で女性用ビニロン靴下に仕上げて大阪三越で販売するなど、合成繊維の勃興期にあって大いに注目を集めました。ただ、このビニロン。日本窒素が合成繊維の重点をアセテート(1956年 日窒アセテート設立)に置いたため、積水化学は繊維業界から撤退することになりました。

押出機そして硬質塩化ビニル管との出会い

そのような折、あたかも「積水」の社名に導かれるかのように、悩める彼らの前に現れたのが硬質塩化ビニル管です。
出会いのきっかけは、それまで日本になかったツインスクリューの押出機「ウインザーRC65(英国製)」とその金型を奈良の京終工場に導入したこと。 元々は軟質塩ビシートの製造を企図して導入し、京終工場に据付けたのですが、その設置点検に来日(1951年9月)したウインザー社の技師長、E・G・フィッシャーが京終工場を訪れた際、携えてきたサンプルを見せて「この押出機で硬質塩化ビニル管をつくることができる」といったのです。
この一言が事態を一変させました。
もとより彼らは、米国の雑誌モダン・プラスチックやウインザー社のカタログで硬質塩化ビニル管を目にしていました。だが、実際に見るのは初めて。
そのサンプルを手にとって「硬質塩化ビニル管はあらゆる産業に役立つ製品。これこそセキスイの柱になり得る」と色めき立ちました。なかでも技術者たちの熱気は凄まじく、すぐさま研究と試験製造にとりかかりました。
しかしながら硬質塩化ビニル管を事業化するには膨大な資金が必要です。これまで手がけてきた受注製品でもありません。
もし失敗すれば産声をあげたばかりの企業にとって命取りともなりかねません。 社運を賭けて硬質塩化ビニル管の製造と取り組むべきか否か。
開発を支持するものと慎重論を唱えるもの。彼らの間で議論が沸騰したことはいうまでもありません。
決断は奇しくも積水化学が硬質塩化ビニル管と出合ったその月、野崎常務らの懇請に応えて新日本窒素肥料常務の職を投げ打ち、積水化学の初代社長に就任したばかりの上野次郎男に委ねられることになりました。

決断そして硬質塩化ビニル管量産化への体制づくり

戦後の物不足の時代、つくれば売れる現状に満足するか。それともリスクを背負って硬質塩化ビニル管製造に踏み切るか。上野は悩みました。戦後、アメリカ軍がドイツの化学工場を調査したところ、多数の硬質塩化ビニル管が使用されていて驚いたとの報告がありました。
日本で使用されている鉄、銅、鉛などのパイプの20%を硬質塩化ビニル管に置き換えると、当時の数字で年間24,000トンの需要が見込まれます。
しかし積水化学単独で膨大な資金を負担して、もし失敗すると命取りになりかねないのも事実。そこで他社にも協力を打診したのですが、何分にも未知の分野で了承を得るまでには至らず、結局、独力で計画を進めることになりました。
そうと決まれば“積水の勢い”。上野は試験輸入していたウインザーRC105(RC65の大型機)と同性能の押出機の開発をT機械に持ちかけて100台一挙発注を約束する一方、原料の塩ビ樹脂についても日本窒素や日本ゼオン、電気化学、信越化学、日本カーバイドなどから大量調達する体制を整えました。
まだ硬質塩化ビニル管が知られていない時代。傍目には随分と無茶な話に映ったのですが「永遠のパイオニア」を自称して憚らない上野は自らの判断に絶対の自信を持っていました。

硬質塩化ビニル管の産みの苦しみ

さて、技術部門の男たちは昼夜を厭わず硬質塩化ビニル管の研究に没頭したのですが、なかなか上手くゆきません。
サンプル程度ならフィッシャー技師長が訪れたその日からでも造れるのですが、思うように連続運転時間がのびないのです。
運転を続けるうちにスクリューに樹脂が焦げ付いて空回りし、機械を止めなければならなくなる。止めれば機械やダイスの分解。早く分解しなければレジンが焦げ付いて清掃に時間がかかるし、塩素ガスが発生しかねない。
長時間連続運転できなければ、量産など夢のまた夢。 このような硬質塩化ビニル管誕生前夜の苦しみは、塩ビ樹脂が数々の優れた特性を持つ半面、樹脂の劣化点を遥に上回る温度で加工しなければならないところから発生したもので、樹脂の配合や押出機の改良と取り組む日々が夜を徹して続きました。 やがて1年が過ぎ、本格稼働の時を迎えます。

ナビ開閉
ページトップへ