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磐梯山麓、雨乞の霊地に湧く名水[エスロンタイムズ102号]

環境省認定名水百選「磐梯西山麓湧水群」

福島県耶麻郡磐梯町

慧日寺から龍が沢湧水への道
磐梯西山麓湧水群

 郡山から磐越西線に乗り、雪をいただく磐梯山の端麗な山容を眺めながら、その山裾をぐるりと半周。ほぼ1時間、電車に揺られて磐梯町駅に降り立った。ここが徳一ゆかりの慧日寺の裏山に湧く磐梯山麓の名水「磐梯西山麓湧水群」への旅のはじまり。

 駅から磐梯町役場の前を過ぎ、その慧日寺に向うと、平将門が寄進したと伝わる檜皮葺きの山門の隣に慧日寺資料館があった。

 この資料館のよく手入れされた庭に磐梯西山麓湧水群のシンボル「龍が沢湧水」から延々と水を引き込んだ水汲み場(左下の写真)があり、地元の人や観光客など多くの人が、ここで名水百選の一つである磐梯山恵みの名水を味わい、またペットボトルなどに詰めて持ち帰る。

 だが、水のある旅ともなれば引き水のみを味わって帰るわけにはゆかない。金堂復元工事が進む慧日寺の境内をあとにし、随所に立てられた木製の道標に導かれて杉木立の小道へと足を踏み入れる。

 この杉木立の小道が龍が沢湧水への道。山開きもまだ遥に先の日のことで、次第に深くなる雪に足下を濡らせながら奥へと進むと、その小道の先に小さな渓流。ここで小道が尽きている。

 さて、龍が沢湧水への道はどこにあるのかと、辺りを歩き回ると、岩の間から清水が湧いている。これも磐梯西山麓湧水群の一つと思いながらなおも龍が沢湧水への道筋を模索しつづける。

 なにしろ小道が尽きるところの渓流は二筋。その二筋のどちらを遡るべきか、準備不足を嘆きながら改めて辺りを見回しすと、先程から小道の脇の木立の間に見え隠れしていた黒いPE管が手前の沢を越え、雪の斜面へと這い登っているのが目に入った。

 このPE管こそ慧日寺資料館庭の水汲み場への導水管と見極め、その周囲の雪がわずかに解けているPE管に導かれるまま、時に膝まで雪に埋もれて深い木立の合間の道なき道を登りつづける。

 やがて、行く先に山肌を横切って流れる苔むした石組みの水路が。その水路の彼方に幾つかの湧水場らしい苔むした自然石があった。

<龍が沢湧水の手前にある水路>

磐梯西山麓湧水群
雨乞の霊地、龍が沢

 目指す龍が沢湧水は、その水路にかかる小橋の先。小橋の脇の磐梯町観光協会が立てた案内板に「龍が沢湧水は、古代末から太平洋戦争直後まで雨乞が行われており、とくに江戸時代には会津藩の命により、磐梯山頂、恵日寺、龍が沢で雨乞が行われた。雨乞の行は、龍石の上にタツノオトシゴと五穀をあげ、僧侶が読経を行った。また、空海が請雨の法を修めた所とも伝えられている」と書かれてあった。

 その案内を読んだ後、水路にかかる小橋を渡って龍が沢湧水へ。

 岩の間からこんこんと湧き出て、小さな池をなす龍が沢湧水の水を汲むと、そのさわやなか滋味が口中に広がり、小道からここまで難路を辿った苦労が一時に報われた。

 池の上方の斜面にある岩の上に石造りの小さな社のようなものが置かれている。この岩が雨乞の龍石なのか、それとも池の大石がそうなのかと思案しつつ、同じ場所にある幾つかの湧水場を巡ったあと磐梯西山麓湧水群の象徴・龍が沢湧水から慧日寺へと戻った。

<慧日寺の山門>

磐梯西山麓湧水群
会津仏教発祥の地、慧日寺

磐梯西山麓湧水群を擁する磐梯町は、磐梯山麓に抱かれた人口4千人ほどの静かな町だが、古くは徳一開山の慧日寺によって会津地方の仏教流布の源となったところ。慧日寺の最盛期には寺領18万石、慧日寺だけで寺僧三千八百、宗徒四千を擁していたという。

 その後、慧日寺は、宗徒頭の乗丹坊が会津四群を引きつれての木曽義仲との戦に敗れ、また伊達・葦名の磨上原合戦で伽藍の一部が焼失するなどあって衰退の道を辿ったが、昭和45年、国の史跡に指定され、今、金堂の復元工事などが進められている。

 行く道は龍が沢湧水への気持ちが逸り、広大な境内をただ通りすぎただけの慧日寺。

 その境内にある福島県の名木で樹齢八百年ともいわれる「磐梯神社の木ざし桜」(種蒔桜)の前に佇み、まだ会津の春浅く蕾さえ膨らまない古木を眺めながら、この桜が見守ってきたであろう慧日寺の昔に思いを馳せた。

<春を待つ木ざし桜>

磐梯西山麓湧水群
最澄と法論を争った徳一

 この木ざし桜の樹齢が800年であるなら、この桜が最初に目にしたのは会津四群を支配する最盛期の慧日寺。若木が育ち、花を愛でられる頃、慧日寺僧兵と木曽義仲の戦があり、この桜が大きく育つとともに寂れてゆく慧日寺の姿であったことだろう。

 だが慧日寺の起源は、木ざし桜が植えられるよりも遥かに遠く、磐梯山の大噴火があったといわれる年があけた大同元年(西暦807年)のこと。東国にあって「徳一菩薩」とまで敬われた徳一(とくいつ、徳溢とも記す)がこの地に寺をひらき、会津仏教発展の礎を築いたのである。

 その徳一(父親はあの藤原仲麻呂。その父が弓削道鏡や孝謙上皇と争い、乱を起こして破れた後、一命を助けられて南都の寺に入り、興福寺の法相教学を学んで僧となったあと、二十歳の頃、東国に下って慧日寺や筑波山中禅寺など多くの寺院を建立した)の名が京の都に鳴り響いたのは、慧日寺開山から間もない弘仁年間(西暦810年代)のこと。天台宗の開祖、最澄との間に繰り広げた「三乗一乗権実論争」が朝廷と仏教界を揺るがす大論争に発展したからであった。

<慧日寺資料館の庭の水汲み場>

磐梯西山麓湧水群
空海も認めた徳一の学識

 もとを辿れば、桓武天皇の寵愛を得て比叡山に天台宗をひらくとともに、独自の大乗戒壇を認めてもらおうとした最澄と、受戒のための戒壇(鑑真が東大寺に初めてもうけたもので、東大寺のほかに筑紫の観音寺、下野の薬師寺に戒壇があった)を支配下に置いていた南都六宗の争い。

 最澄がいくら弟子を育てても、その弟子が国家公認の僧となるには全国3箇所しかない戒壇での受戒が必要で、その戒壇が最澄の活躍を苦々しく思っている南都六宗の影響下にある以上、よほどの秀才かつ意思堅固な者でなければ受戒できず、天台を捨て他宗に転じる弟子や挫折して姿をくらます弟子があとを絶たなかった。そのことが最澄独自の大乗戒壇勅許願いとなり、またぞろ南都六宗の反発を呼んで大乗戒壇を巡る法論争いへと発展したのである。

 その時、南都に学僧数多ある中で、最澄との法論争いの矢面に立ち、一歩も退かず法論を論じたのが、東国から牛の背に揺られ都にやってきたとも伝わる徳一であった。

 二人の論争は繰り返されて果てることなく、最澄が没したことにより終焉。ちなみに法論争いの元となった大乗戒壇は藤原冬嗣らの斡旋によって最澄の没後7日目に聞き届けられている。

 この時代のもう一人の偉大な僧が高野山をひらいて真言宗を確立した空海。その空海も徳一の学識を認めていたようで、戒壇争いの前、東国にある徳一に空海が密教教典の書写、布教を依頼したが、徳一は真言密教への十一ヵ条の疑義を記した真言未決文を送り、これを峻拒した。

 徳一の未決文を読んで空海はどのような顔をしたのだろう。おそらくは、やわやわとした笑みを浮かべ、静かに文を手文庫へと納めたのではないか。空海から徳一への返書はなく、500年後、真言宗から回答文がだされている。

 そこが最澄との違い。もとより戒壇を巡る法論ゆえ一歩も退けない立場にあったのだが、最澄は逐一、徳一の疑義に応え、徳一また反論して二人の法論が果てしなく繰り返されたのである。

 慧日寺の境内にある徳一廟に手を合わせ、最澄、空海と渡り合った偉大な僧を偲び、磐梯西山麓湧水群の地を離れた。

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