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鵜の瀬 [エスロンタイムズ98号]

環境庁認定名水百選「鵜の瀬」

福井県小浜市神宮寺

古都奈良に春を送る鵜の瀬の水

<お水送りの里「鵜の瀬」>

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 その昔、若狭の国の海産物を都へと運んだ街道の一つに、東小浜から遠敷川(おにゅうがわ)の流れに沿って国境の峠を越え、近江の国の針畑に至る根来道・針畑越(その先、鞍馬街道を辿って都の鞍馬口へ)がある。
 この街道の途中にあって、奈良東大寺二月堂のお水取りにまつわる遠敷明神の逸話で知られる鵜の瀬を訪ねるべく、JR小浜線の東小浜駅から神話時代の浪漫に彩られた根来道に向かった。
 東小浜駅から国道27号線を横切ると、すぐに目に飛び込んでくるのが鬱蒼とした若狭姫神社の森。

<若狭姫神社>

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 若狭一の宮の下社にあたるこの社は、鵜の瀬の白石に降臨なさったという豊玉姫命(龍宮伝説の乙姫様)を若狭姫神と称え祀っている神社で、社殿を覆う巨樹の葉叢が養老5年(西暦721年)創建の由緒ある神社の歴史を物語っている。
 この若狭姫神社から遠敷川沿いの根来道を約1・6km登ったところにあるのが若狭一の宮の上社にあたる若狭彦神社。

<若狭彦神社>

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 霊亀元年(715年)創建のこの社は、豊玉姫命の降臨に先だって鵜の瀬に降臨なさったという山幸彦(海幸山幸の神話で有名な彦火火出見尊)を若狭彦神と称え祀っている神社で、御祭神の若狭彦神はこれから訪ねる鵜の瀬ゆかりの遠敷明神と同一神されている。
 さらに遠敷川に沿って登ると、若狭彦神の祝部・和朝臣赤麿が和銅7年(714年)にひらいたという若狭神宮寺。
 神仏両道のこの寺もまた鵜の瀬と切っても切れない関係にあるのだが、ここは鵜の瀬からの戻り道に寄ることにして、そのまま上流を目指した。
 
 
鵜の瀬に息づくお水送り神事
 やがて、こんもりと木立が茂る遠敷川の土手に錆び丸太を組み上げたかのような小さな鳥居。その傍らの石碑に白い文字で鵜の瀬と刻んであった。

<鵜の瀬にある鳥居と石碑>

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 その侘びさびた鳥居を潜ると、若狭一の宮神域と書かれた看板の文字。
 若狭一の宮なら先程詣でてきたのにと首を傾げていると、「ここは若狭一の宮の飛び地。若狭彦神と若狭姫神が相次いで御降臨なさった磐倉があるところで、御二神をお祀りするお社も当初、この鵜の瀬にあったのを霊亀元年と養老5年に今の若狭一の宮の上社と下社に遷社したのですよ」と親切な地元の方が教えてくださった。
 その木立の先が鵜の瀬の淵。澄み切った遠敷川の水が、河原を覆う平らな岩盤を抉り、幾つかの小さな滝となって流れていた。
 そこから少し上流の橋(最上写真奥)を迂回して対岸に渡り、春の陽に白く煌めく鵜の瀬の淵を撮影しているうちに、ふと気づいたのが岩棚の窪みに残る黒い燃え殻。
 この神域の岩棚にどうして燃え殻がと思っているうちに、毎年3月2日の深夜、この鵜の瀬の淵で繰り広げられるという「鵜の瀬のお水送り神事」が脳裏を過った。
 それは3月13日の午前2時に行われる奈良二月堂のお水取りに先だって、若狭神宮寺境内の閼伽井で汲んだ閼伽水(御香水)をこの鵜の瀬の淵にそそぎ、二月堂の閼伽井に送り届ける神事。

<若狭神宮寺の本堂>

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<鵜の瀬にそそぐ若狭神宮寺閼伽井の御香水>

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 その夜になると、白装束にすっぽりと身を包んだ若狭神宮寺の僧侶と山伏姿の根来八幡宮の神人。それに三千人にも及ぶという随伴者が手に手に松明をかざして神宮寺から鵜の瀬まで遠敷川沿いの道(約2km)を進み、鵜の瀬の淵に到って岩棚から御香水をそそぎ込むとのこと。

<鵜の瀬お水送り神事>

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遠敷明神の誓約と閼伽水
 この鵜の瀬のお水送り神事と奈良二月堂のお水取りを結んでいるのが、修二会にまつわる実忠和尚と遠敷明神の物語。
 その天平の浪漫に満ちた逸話を簡単に紹介すると。
 天平勝宝4年(752年)東大寺二月堂をひらいた実忠和尚が、かって笠置山(京都府相楽郡笠置町)の龍穴でみた兜率天の行法を身をもって行うべく修二会(十一面悔過の行。現在は11人の練行衆が世の全ての人に代わって本尊の十一面観音に懺悔しているが、最初の頃は実忠和尚お一人の秘密の行法だったようです)を始められた時、その成就を願って八百万の神々を勧請されたところ、他の神々は皆こられているのに若狭の遠敷明神のみが大好きな魚釣りに夢中になっての大遅参。やっとのことに駆けつけたのは旧暦2月12日の深夜というから行も終わりの頃だった。
 だが実忠和尚の修二会を一目みて心から感激された遠敷明神。遅参のお詫びにと本尊に供える閼伽水を毎年若狭から送ると誓われた刹那、二月堂のお堂の下の地面を破って白と黒2羽の鵜が飛び立ち、そこから甘露の泉が湧きだしたという。
 この泉を囲ったのが、遠敷明神にちなんで若狭井とも呼ばれる二月堂の閼伽井。
 つまり、ここ鵜の瀬と二月堂にある若狭井は、その時に2羽の鵜が掘った地下トンネルで今もつながっているというのです。

大仏開眼と同じ年に修二会
 そんな馬鹿なと笑われる方のために、鵜の瀬の逸話の側面的な考察を一つ二つ。
 地図をご覧いただくとわかるのだが小浜の神宮寺にある鵜の瀬から真っ直ぐ南に線を引くと、それこそ赤鉛筆の太さの範囲内に東大寺二月堂がある。この南北の位置関係(東経約135度50分のほぼ同じ経線上)は偶然ではあるまい。恐らく勧請しやすい位置など何らかの宗教的な理由があると思われる。
 だが二月堂の真北というなら途中の京都や滋賀の水でも良かったはず。それなのに何故、若狭なのか。この謎を解く鍵の一つが、鵜の瀬の傍らにある良弁和尚生誕の地の石碑。
 その碑文を読むと「良弁和尚は伝説によれば689年ここ小浜下根来で生れたが、子供の時に鷲にさらわれ、東大寺前身の奈良金鐘寺で育てられた。(中略)お水取りを始めた印度僧実忠は良弁の弟子」とあった。
 ところで東大寺の初代別当・良弁僧正といえば聖武天皇、行基菩薩と並ぶ大仏造立の立役者。その弟子の実忠和尚もまた東大寺の目代として師の大仏造立を支えていたのである。
 この大仏開眼と修二会の創始が、ともに天平勝宝4年(752年)の同じ年。
 つまり実忠和尚が初めて修二会を行じた2ヶ月後に華厳経の蓮華蔵世界を象徴する巨大な毘盧遮那仏(奈良の大仏)が完成したのだが、そうなると当時、大仏の鍍金に使った膨大な量の水銀が東大寺周辺を汚染していたのではと推測できる。
 そこで兜率天の行法により生身の十一面観音を勧請しても捧げるべき閼伽水が汚染されていてはと悩んだ実忠和尚が、良弁僧正ゆかりの地の遠敷明神(鵜の瀬の水)を勧請(二月堂の北東角に遠敷明神の社がある)し、閼伽井(若狭井)の水を清めたのが鵜の瀬の逸話につながったのではないだろうか。
 その若狭井から二月堂の2体の本尊に供える1年分の御香水を汲むのが、修二会の中でも秘技中の秘技といわれるお水取り。
 ともに火と水に彩られた二月堂と鵜の瀬の夜に思いを馳せながら鵜の瀬の淵を覗き込み、この淵のどこかにあるという水中洞穴を探し求めたあと、鵜の瀬の川下約2kmにある若狭神宮寺に戻って、境内の閼伽井に湧く甘露の水を味わった。

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