雄町の冷泉 [エスロンタイムズ99号]
環境庁認定名水百選「雄町の冷泉」
岡山県岡山市雄町
岡山藩が守った備前の国の名水
岡山城の北東約4kmのところに、かって岡山藩主の御用水として大切に守られてきた井戸(雄町の冷泉)がある。
<お水屋敷跡の「雄町の冷泉」>

中国山地の山深くに源を発し、岡山平野を流れ下って瀬戸内の児島湾へと注ぐ旭川の伏流水が湧きだしたもので、その水質の良さは「岡山藩主の池田光政公が備前の国第一の名水と褒め讃え、お水屋敷で囲ってお手前の井戸としたほどのもので、昔は庶民の口になど滅多に入らなかった」と地元の人が誇らしげに語るほど。
カルシウムやマグネシウムなどのミネラル分が適度に混じった硬水で、昭和60年に環境省の名水百選に認定されたことから都市部にある交通便利な名水として人気が沸騰。マナーをわきまえない人によって周辺環境が荒らされたことから平成9年、岡山市が「雄町の冷泉」の近くに水汲み場のほか水の遊具や駐車場を備えた「おまちアクアガーデン」(岡山市雄町305ー8)を開園。その後、同冷泉の水を汲む場合は、このおまちアクアガーデンを利用することになった。
<おまちアクアガーデン>

路地の奥にお水屋敷跡の井戸
JR岡山駅から高島団地経由東岡山行きのバス(宇野バス)で約20分。山陽新幹線沿いの道筋にある雄町中のバス停で降りたあと、ここから徒歩で10分足らずのお水屋敷跡に向かう。
目標となるのが道の途中にある岡山雄町郵便局。そこから雄町の冷泉まで車1台がやっと通れるほどの細い道を百mほど歩くと、民家の壁際に雄町の冷泉の看板が。
そこで左に曲がって、さらに細い路地の奥の民家の軒先に古い屋形で覆われた井戸。
なるほど、この道筋に名水を求める多くの人が車などで詰めかけたのではトラブルも起きると納得した。
昔は勢い良く噴きあげる泉の周りに芝生を張り巡らせ、水奉行が管理していたという名残が屋形の後の庭にみられる。
屋形の下の井戸は簀の子のような竹の蓋で覆われており、そこから直接水を汲むことはできなかったが、井戸の前に上の写真のような水汲み場があったので、ほんの一口、口に含ませていただくと、まろやかというのがピッタリの味。
そのあと郵便局まで戻って道なりに1分ほど歩くと、雄町の冷泉と同じ旭川の伏流水を水源とする「おまちアクアガーデン」。まるで借景のような長閑な田園風景に抱かれた園内には扇状地の砂礫層に磨かれた名水を求めて水を汲む人の姿が途切れることなくつづいていた。
そのお一人。何本ものペットボトルに名水を詰め、車へと運んでいる方を呼び止めて利用法を尋ねると「この水を使って煮炊きすると、お茶やご飯がひと味違う」とのこと。
この雄町の冷泉の水源になっている旭川を遡ると、その源流の一つに「塩釜の冷泉」(岡山県真庭市下福田)がある。
鳥取県との県境をなす三蒜の真ん中、中蒜山の谷間に突如として湧き、東西約12m、南北約5mの池を形づくっているもので、地元の人が「塩釜様」と呼び、大切にしているこの湧水もまた環境省認定名水百選の一つ。
源流に湧く塩釜の冷泉と伏流水の雄町の冷泉。同じ川筋で2箇所の湧水が名水百選に選ばれた例は他になく、旭川の水の恵みの豊かさと人との関わりの深さを物語っている。
ところで雄町の湧水を約九百坪の御水屋敷で囲い、水奉行を設けて大切に守ってきた備前岡山藩とはどのような藩であったのか。天下の三名園の一つ、後楽園を造園した頃までの、まるで小説の世界のような藩の歴史を辿ってみると。
関ヶ原から百年後に後楽園
<名園・後楽園からみた岡山城>

今に伝わる岡山城の元を築いたのは実力で岡山平野を制覇した戦国大名・宇喜田直家。
その嫡男でのちに豊臣家五大老の一人となった秀家が旭川の流れを変えて掘割とするなど、堂々たる三重六階の天守閣を築いたのだが関ヶ原の合戦に敗れ、代わって備前美作51万石の領主になったのが皮肉にも寧々の兄の木下家定の5男に生まれた小早川秀秋。
土壇場の寝返りで東軍勝利に導いた、この小早川秀秋の領地替えから徳川三百年にわたる備前岡山藩の歴史が始まるのだが、こののち御水屋敷を創設した池田光政公までの領主交代が目まぐるしい。
(1)関ヶ原から二年後の1602年、秀秋に嫡子なく小早川家廃絶。
(2)小早川家廃絶の後、播磨姫路の領主・池田輝政の次男で徳川家康の外孫にあたる池田忠継が領主となるも、わずか5歳のため腹違いの兄で輝政の嫡男・池田利隆(姫路領主)が岡山城代として政務をみる。
(3)大坂冬の陣の翌年、忠継が亡くなり、同じく家康の外孫で輝政の3男・忠雄が継ぐ。
(4)荒木又右衛門・鍵屋の辻の決闘でも有名な池田忠雄が31歳で江戸在府中に亡くなると、嫡男の光仲が3歳で岡山藩主となるも光仲幼少につき池田利隆の嫡男で鳥取藩主となっていた光政と国替え。
ざっとこのような経過を辿って寛永9年(1632)、光政公が24歳の青年藩主として生まれ故郷の岡山に戻り、長らく藩主親政の政を行って明治の時代まで続く岡山藩の基礎を固めることになった。
この光政の嫡男が百間川の治水工事や御後園(のちの後楽園)造園を行った綱政公で、その後楽園の完成をみたのが元禄13年(1700)。時あたかも関ヶ原の合戦から百年目のことであった。


