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宇陀水分神社湧水[エスロンタイムズ94号]

名水百選「宇陀水分神社湧水」

奈良県宇陀郡菟田野町古市場

水を司る神々 いにしへの奈良の都の水分(みくまり)神社

八重桜で花争い
いにしえの 奈良の都の八重桜 けふここのへに 匂ひぬるかな
 
 詞花集にあって小倉百人一首でもお馴染のこの歌と出合うたび、赤とんぼの唱歌のように心に響き、いにしえの奈良の都に咲き匂う八重桜の姿が浮かぶ。
 この歌が詠まれたのは一条天皇の御代(在位期間九八六年 ~一〇一一年)のこと。奈良の興福寺の境内に都でもつとに知られる聖武天皇縁の八重桜があった。
 その花の気品に満ちた姿の見事なこと。御所の庭に植え替えようとした中宮彰子と「この花は命にかけても守る」という興福寺の僧兵の間で花争いがあったと伝わるほど。
 花争いの顛末は中宮彰子が諦め、興福寺は東円堂の傍らに咲きつづけることになるのだが、この奈良八重桜(学名)が「いにしえの」の歌に詠まれた花の元なのである。
 今、東円堂もこの花の姿も見ることはできないが、平安の頃にあっても京の宮廷人が興福寺まで出掛けるのも大変なこと。
 そこで八重桜が花咲くたび、その一枝が京の都に運ばれて宮中に献上されたのである。
 その花使いを迎えるのが妙齢の受取り役。
 ある年、その役に選ばれた伊勢大輔(いせのたいふ)が、献上の八重桜の一枝を手に鈴振る声で詠んだのが冒頭の歌なのである。
 歌の中の「ここのえ」は、八重どころか九重にも咲く花の美しさと宮中を意味する九重を重ね合わせたもの。
 平城の都から平安の都。その距離と時代を一つに読み切ったこの歌を彰子に仕えていた紫式部はどのように聞いたことだろうか。
 その少し前、一条天皇の寵愛を競った皇后定子に仕えた辛口の清少納言はと思う心のうちに、見も知らぬ伊勢大輔の艶やかな姿が浮かんだ。
 
 
国宝の社殿の前に竹井筒
 
 さて平城の都は、源氏物語の時代に「いにしえの」と伊勢大輔が詠むほどの古い都。あるいは邪馬台国の昔から大和の地に卑弥呼の宮殿があったかもしれない土地柄である。
 今回の水のある旅は、その古き都の「やまとの水」にも選ばれている宇陀水分神社の湧水「薬の井」から神話の時代へと向かうもの。
 まずは近鉄大阪線榛原駅から奈良県宇陀郡菟田野町古市場にある宇陀水分神社へと出かけることにいたしましょう。
 榛原駅から菟田野(うたの)行き、あるいは岩端行きのバスで約20分。こんもりと小さな里山が幾つも連なる道を揺られて古市場水分神社前のバス停で降りると、目の前を流れる芳野川の先に朱塗りの大鳥居がみえた。
 参道の先に源頼朝が天下掌握を願って幼木を植えたという頼朝杉の二代目。二代目といっても一抱えに余る巨木である。
 古樹鬱蒼たる木立に包まれて静かに佇まう中央と左右の三殿からなる朱塗りの本殿(国宝)を眺めながら拝殿に進むと、拝殿の傍らにある水舎の竹井筒から清らかな清水がほとばしっていた。
 

<国宝指定の水分連造りの社殿(中央手前が水舎)>

94-02

 

<青い竹井筒からほとばしる薬の井>

94-01

 
「薬の井」とも呼ばれるこの水は、第一社殿裏の岩肌から湧出した石清水を汲みやすいように社殿の前まで導いたものとのこと。
 昔からこの石清水で薬を呑むと効能が増すといわれ、また、この石清水を汲んで田に入れると、その年は水に困らず豊作になると大切にされてきた。
 薬の方の伝承はわからないが、豊作祈願の農耕信仰は宇陀水分神社の御祭神である速秋津比古神(はやあきつひこのかみ)、天水分神(あめのみくまりのかみ)、国水分神(くにのみくまりのかみ)の水分三座にあることはいうまでもない。
 速秋津比古神は、古事記にある海と川をつかさどる速秋津日子と速秋津比売の男女両神を一つにした神様のようで、天水分神、国水分神はその子供。水分(みくまり)の言葉のとおり、水を配分する水の神様である。
 一説によると、この速秋津日子、速秋津比売、天水分神、国水分神の水の神を祀る神社が全国に六百ほどもあるというが、奈良や大阪の他で水分と名がついた神社を見掛けることは少ない。
 それは水先案内役の旅子が不明なためであるが、これまでのところ滋賀県志賀町にある栗原水分神社、広島県府中町の水分神社、長崎県千々町の水分神社を見掛けたくらい。
 だから水分(みくまり)とは、奈良界隈に固有の読み方、神社だと思っていた。
 そう思った一因は、十世紀の頃に書かれた「延喜式」 に大和国葛城郡の葛木水分神社、吉野郡の吉野水分神社、宇陀郡の宇太水分神社、山辺郡の都祁水分神社とあって、ほかに河内国石川郡の建水分神社、摂津国住吉郡の天水分豊浦命神社を載せられているから。
 河内国石川郡の建水分神社は今の千早赤阪にあって河内の豪族、楠木正成の守り神。
 葛木水分神社とは府県境の峠を挟んで向かい合う形だし、摂津国住吉郡の天水分豊浦命神社は大和の国の水を集めて流れる大和川の河口地域。水つながりで同じ「水分神社」があるのだと思い込んでいたのである。
 これらの神社が何時の時代にできたのか確とはわからないが、「続日本紀」に文武天皇2年(698年)4月、吉野水分の神に馬を献じて雨乞いしたと記されている。
 
 
吉野、葛木、都祁の水分神社
 
 その文武天皇が馬を献じて雨乞いした吉野水分神社があるのが桜で名高い吉野山。
 近鉄吉野線の終点の吉野駅からロープウェイに乗って、金峰神社を目指し、そこからさらに歩いてと手ごろなハイキング並の道程だが、花の時期や宮滝万葉の道を辿るなら尚更のこと桃山時代の様式美を漂わせる吉野水分神社を訪ねてみるといい。
 古い神社が桃山様式なのは豊臣秀頼が再建したから。なんでも秀吉が水分の神に祈願して秀頼を授かった縁とかで、華やかな彫刻も見どころの一つになっている。
 「みくまり」が「みごもり」に転化したのか、それとも豊作が子授けにつながったのか。水分神社が子を望む人の信仰を集め、本居宣長が「水分の神の誓ひのなかりせば これのあが身は生まれこめやも」と、この神の霊験で生を受けた感謝の歌を詠んでいるほど。
 葛木水分神社へは近鉄吉野線の途中で乗り換え、御所駅から長柄行きバスで長柄下車。そこから西に約2kmの道程。
 社殿の前に小川(水越川)があって澄んだ水が流れている。
 この神社を西に向かって金剛山と葛城山の間の水越峠を越えると、先程の河内の国の建水分神社である。
 勝手な想像をするなら大和の国と河内の国。この二つの国の間に長い水争いの歴史があったのではと思わせる神社の配置になっている。
 いわば大和の国の水を守る西の鎮守が葛木水分神社というところか。
 山辺郡都祁村友田にある都祁(つげ)水分神社は、榛原駅を挟んで宇陀水分神社の北約15km。この辺りでは、今でも雨乞いの時には火種を水分神社からもらい、焚き火を盛大に燃え上がらせるとか。
 創建当時は現在より約3km南の小山戸カモエ谷(都祁山口神社の地)にあったということだが、小山戸はオヤヤマト、都祁はトキ。
 魏志倭人伝の邪馬台国の記述にある都支国が頭を過って打石器、石鏃類が多く出土するというこの辺りの風景を改めて見渡した。
 なお冒頭の「奈良八重桜」は、知足院(天然記念物)、東大寺、春日大社、春日大社摂社若宮神社、奈良公園、県公会堂などをはじめ、京都の桂離宮と宝鏡寺にもあるとのこと。

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