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伊吹山麓に湧く名水[エスロンタイムズ95号]

伊吹山麓に湧く名水

滋賀県米原市・坂田郡伊吹町

日本武尊が身を浸した居醒の水

<居醒の水と地蔵堂の石橋>

水のある旅95-01

 その昔、京の都を旅立った旅人が山科から逢坂の関を越えて大津宿を過ぎると近江八景で名高い瀬田唐橋。
 百余の川の水を集める琵琶湖から唯一流れ出る瀬田川に架けられたこの唐橋は風光明媚なばかりでなく、大海人皇王と大友皇子の「壬申の乱」。また鎌倉討幕を企てた後鳥羽上皇の「承久の乱」でも両者決戦の場となるなど、幾多の歴史の転換点をみてきた。
 この瀬田唐橋を渡ると草津の宿。
 ここで街道は二つに分かれ、西に向かって石部、水口、土山、坂下の宿場を過ぎ関、亀山から伊勢湾に出て海沿いの道を花のお江戸の日本橋に至るのが東海道。
 草津宿から琵琶湖に沿って守山、武佐、愛知川、高宮、鳥居本宿、番場の宿場を過ぎ、醒ケ井宿(滋賀県坂田郡米原町)から伊吹山の南麓を辿って関ヶ原、馬籠、妻籠、塩尻、下諏訪、高崎など67の宿場を重ねる山道を江戸の板橋宿に至るのが中山道であった。
 この二つの街道は江戸時代ともに五街道の一つに数えられ、今でいうなら差し詰め東名や名神といった高速道路並みの役割を担っていた。(あとの三つは江戸から日光東照宮に至る日光街道。千住から白川に至る奥州道。内藤新宿から石和に至る甲州街道)
 ちらりと歴史を覗き見すると、東海道が道として整ったのは紀元前二世紀頃のことだそうで、魏志倭人伝にいう卑弥呼の時代には邪馬台国の人々が往来していたかもしれない。
 それほどの昔は兎も角、奈良時代になると東海道に駅制度(宿場制度)や関所が設けられ、中山道(木曽街道)も道として整ったという。
 
 
醒ヶ井宿に湧く居醒の水

 街道という言葉の響きに誘われて、ついつい蛇足の回り道。周知のことを綴ってきたが今回の水のある旅は、その五街道の一つ中山道の街道沿いに湧く醒ケ井宿「居醒の水」(滋賀県坂田郡米原町)が振りだし。
 JR米原駅から東海道本線に乗り継いで一つ目の醒ケ井駅で降りると、駅前の広場の向こうに中山道の道筋が顔を覗かせている。
 バイカモ群生地の看板に従って街道に足を踏み入れると、紅殻塗の古い家並が残る町中に地蔵川と呼ばれる石組みのせせらぎがあった。

<バイカモが茂る地蔵川のせせらぎ>

水のある旅95-02

 清冽なまでのせせらぎには幾つかの軒並みごとに石段があって水辺に下りることができ、そこでは今も地元の人が果物や麦酒を冷やしたり漬物用の日野菜などを洗っているとのこと。
 夏の陽にきらめく水面に緑濃い水草。どこまでもつづくその茂み一面にバイカモの可憐な花が咲いている。
 このバイカモはキンポウゲ科の沈水植物で清流を好み、清流でしか繁茂しない植物。初夏から晩夏にかけて咲く白い小さな梅のような花が出迎えてくれたのである。
 バイカモがあるならハリヨもと水面に瞳を凝らしてみたが、水草の茂みに姿を隠しているのか見つけることはできなかった。
 昔の旅人よろしく川辺の石段に腰を屈めて手を浸し冷たい水で汗を拭いながら地蔵川の流れを10分ほど遡ると、伝教大師(最澄)縁の醒ケ井延命地蔵尊の御堂。
 秋にはさぞかし見事な紅葉をみせるであろう地蔵堂のすぐ先が地蔵川の源流で、石組みのあちらこちらから「居醒の清水」が湧きだしているのがみえる。
 

<地蔵川の源流・居醒の水>

水のある旅95-04

 
 つまり醒ケ井宿を街道に沿って流れる地蔵川の清冽な流れはここから始まり、その先に水の流れはない。写真のような小さな泉の水がそのまま絶えざる流れとなっている。
 町中でありながら、これほどはっきりした源流をみるのは稀なことと思いつつ水を掬って咽を潤す。恐らくはカルスト系の水なのであろうが無味無臭の滋味。水温約14度の湧き水が夏の陽射しの中で冷たく心地よい。
 
 
日本武尊縁の名水

 源流の傍らに居醒の清水の名の元ともなった日本武尊の石像。

<居醒の水の傍らに日本武尊の像>

水のある旅95-03

 その昔、伊吹山の荒ぶる神と戦った日本武尊が毒の霧にあたって意識朦朧となった時、この地の清水に身を浸して意識が戻ったと言い伝えられている。
 すなわち、この物語を伝える古事記や日本書紀は、日本武尊(古事記では倭建命)が身を浸した清水を「居醒水」と呼んでいる。
 醒ケ井の地名もこの故事にちなむものなのだが、実はこの近くに居醒の水かもしれない湧き水がもう一箇所ある。
 それは醒ケ井から東海道本線で一駅東の近江長岡駅から伊吹山に向かい、その南麓にある泉神社の境内に湧く「泉神社の湧水」(滋賀県坂田郡伊吹町)。

<名水百選の一つで居醒水の古伝を伝える泉神社湧水>

水のある旅95-05

 
 神社の社伝によると天智天皇の頃、弓馬操練の地であった山野に泉があって、その水が清冽であったので天泉所と称し、ここに素戔嗚尊、大己貴命の二柱を産土神として祀ったのが神社の縁起とのこと。また、古伝に日本武尊の居醒水と伝えられ、環境庁認定「名水百選」にも選ばれて名水の里・大清水(伊吹町)のシンボルになっている。
 これらの名水は揃って滋賀県坂田郡に湧き、鉄路で一駅の距離にあるのだから同じ伝承を伝えていたとしても不思議ではないのだが、二つの湧水を同じ日に訪れてみると、さて日本武尊の「居醒水」はどちらなのかといらざる思いが湧いてくる。
 
 
神話の御代の夢
 
 では、古事記や日本書紀にある居醒水とは。
 それは父である景行天皇の命を奉じて東国十二ケ国(伊勢、尾張、三河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、相模、武蔵、総、常陸、陸奥)に向かった日本武尊が相模の国での草薙の剣の神威や走水の海での弟橘比売(おとたちばなひめ、日本武尊の妻)の犠牲で無事、東国平定を成し遂げての帰途のこと。尾張まで戻ったところで伊吹山の荒ぶる神を征伐しようとした際に起きた。
 その日、日本武尊は草薙の剣を美夜受比売(みやずひめ)に預けて出掛けるのだが、伊吹山の神の化身である大蛇(白い巨大な猪ともいう)に気付かず山道を行くうちに毒の霧にあてられて意識朦朧たる状態になり、命からがら逃げ戻って泉に身体を浸したところ高熱がさめて意識が戻ったとある。
 そのあと日本武尊は杖を突き突き鈴鹿の山を越えて美夜受比売が待つ尾張に戻ろうとされるのだが、身に毒が残っていたものか能褒野(のぼの。三重県亀山市)で戻ったところで力尽き亡くなっている。
 この辺りが神話の微妙なところで、恐らくは伊吹山界隈の支配者と和平交渉のつもりで草薙の剣を持たずに出向き、道の途中で毒でも盛られたのではと勝手な想像を膨らませながら、さて日本武尊の「居醒水」は伊吹山の麓に近い泉神社の湧水か、それとも醒ケ井の居醒の水かと毒の霧ならぬ古代史の夢に酔った。

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