天王寺の七名水[エスロンタイムズ96号]
天王寺の七名水
大阪市天王寺区
上町台地に湧く不思議の水 浪花の町の繁栄を築いた水の物語
<清水寺・玉出の滝>

「大阪のど真ん中に滝がありまんのやで。えっ、どこぞの地下街か公園にできたんかやて。違いまんがな。正真正銘、ほんまもんの湧き水が流れ落ちる滝やがな」
「嘘!」
「ほんまやがな。疑り深いお人やな。ほんなら論より証拠。これから行ってみまへんか」
山といっても日本一低い天保山(標高4・5m)やら茶臼山。まるで古墳並みの高地しかない大阪市の真ん中に天然自然の湧き水の滝があると言い張る浪花っ子。
その浪花っ子に腕をとられるようにして連れていかれたのが谷町筋の南にある聖徳太子縁の四天王寺西門前。
善男善女の人波で賑わう門前を眺めた浪花っ子が「あんさん、水に興味をお持ちのようやから四天王寺さんの境内にも見てもらいたいところがあるのやけど疑うてはるから……」と笑ったあと、谷町筋をちょっと北に歩いて「滝があるんは、こっちやで」と左に曲った。
どこからみても住宅街のど真ん中。こんな場所に本物の滝があるわけないと思っているうちに目の前の視界が開けて坂の上。その坂の端に『有栖山清水寺』と彫られた大きな石柱が……。
<清水坂と石柱>

「この坂が清水坂。ほかにも天神坂、愛染坂と由緒のある坂道がありまっさかい、あとでご一緒に」と、石柱脇の細道を導びかれた光が清水寺の境内。
寺の縁起に『四天王寺の支院にして十一面千手観音霊験の地…(中略)…本寺南側の谷にある玉出の滝は四天王寺金堂下にある青竜池から蕩々として流れ出る白石玉出の冷水の霊水が此処に滝になったもの』と記されていた。
浪花の礎となった上町台地
ここに到ってハッと気付いたのが大阪の、いや浪花の町の礎となった上町台地のこと。
もしやと思う気配を悟ったのか「ふふ、ここが南北に大坂城まで伸びる上町台地の西の端。清水坂も愛染坂も台地の西端を下る坂道ですわ」と浪花っ子が笑った。
それならと思い浮かぶのが浪花の町の昔も昔。まだ上町台地が河内の海に突きだした半島だった頃、大阪の町の姿はなく東の生駒山から上町台地まで、そして台地の西も海の中。それが弥生時代、上町台地から北にのびる天満砂洲や淀川などが運ぶ土砂で浪速八十島や河内平野ができて河内湾の陸地化が進んだのだが、今、目にしている台地の西の街並みは太閤さんの頃になっても潮が打ち寄せていたところ。
万葉の歌人・小野篁が「わた(海)の原 八十島かけて漕ぎいでぬと 人には告げよ 海人の釣り舟」と詠んだ浪速八十島を思い、海が陸に変る壮大なドラマをまぶたに描いているうちに、ふと頭を過ったのが古事記にいう「クラゲなす漂える国」。
その漂える国に鉾をもって水路をひらくとオノゴロ島(自ら凝る島)ができあがる。
いや、オノゴロ島論争とは別な次元で、古事記の記述と同様の国造り現象が浪速(なみはや)の国にもあったのか思ったのです。
それはともかく古くから人が住み、海に流れる土砂を塞き止めた上町台地が浪花の町の礎。
卑弥呼の時代から50年ほど後「高き屋にのぼりて見れば煙り立つ 民のかまどもにぎはひにけり」と仁徳天皇が詠まれたのも上町台地なら、そのまた三百年ほど後の聖徳太子による難波四天王寺建立(西暦593年)もこの地。西暦650年になると台地の北端に難波宮が造営され、さらに時代が下って石山本願寺や大坂城が難波宮の傍らに築かれている。
そのような上町台地の歴史を思いながら清水寺の境内を歩いていると、「ここから急な石段やから気をつけなはれ」と浪花っ子の声が。
音羽の滝と見紛う「玉出の滝」
清水寺境内の南端にある石段を下ると、写真のような玉出の滝。その滝を眺めて、あれっと思ったのは京都・音羽山清水寺にある有名な音羽の滝とそっくりだったから。
寺の名や滝の姿。二つの清水寺の間に何かの因縁があるのかとも思ったのですが、京都の清水寺は一寺一宗の北法相宗。こちらは和宗総本山四天王寺の子院。ともに十一面千手観音が御本尊の他につながりはみられず、どうやら京都の音羽の滝をお手本に寛政8年(1796年)「玉出の滝」がつくられたらしい。
この玉出の滝は行場になっており、いまでも滝にうたれる人があるということだった。
飲用不可の高札を横目に流れ落ちる糸のような滝の水を酌み、口に含んでみると無味無臭の柔らかな味。これで飲み水にできるなら、さぞかし人の列ができるだろうと思ったのは、あちらこちらの名水を汲み歩いているせいか。
「どないです。ほんとでしたゃろ。そやけどこの高台に湧き水なんて、ほんまに不思議やなぁ。ほんまに四天王寺さんの金堂下に青竜池があって、そこから流れてくるんやろか」
鼻高々に首を傾げている浪速っ子に「上町台地は生駒山と同じ岩盤が湾曲して顔をだしたもの。四天王寺境内の『亀井の水』(金堂の傍にある亀井堂の地下にある水で、石に彫られた巨大な亀の口から流れる水に亡くなった人の戒名を書いた経木を浮かべ、その浮沈の様で霊魂を弔う信仰がある)も、この玉出の滝も生駒山に降った雨が同じ岩盤の端にきて湧きだしたものでしょう」とつい味ないことをいってしまった。
<四天王・亀井の水>

「へぇー、そないなものですかいな。それやったら昔の人がいうように亀井の水も玉出の滝もおんなじ水脈なんやなぁ」と関心した浪速っ子が「それやったら、この辺りの湧き水はみんなお仲間はんや。ついでに回ってみまへんか」と水を向けた。
安居の井戸や愛染めの霊水
こちらにとっても渡りに舟。頷いてみせると「ほんなら先ずは安居の天神はん。菅原道真公が太宰府に流されはる途中、安居の修法をしなはったところで、その境内に道真公の癇気を癒した癇鎮めの井戸がおますからな」と清水寺より南にある天神坂を下って行く。
<安居天神・癇鎮めの井戸>

その坂の途中に安居の清水を再現した小さな水路(大阪市建設局)があって傍の碑に「江戸時代、この辺りには天王寺七名水といわれる良質な湧き水があり、この水を汲んで売り歩く水屋なる商売があった」(要約)と記されていた。
坂の下には安居天神の森。石段を登って境内に入ると本殿脇に大坂落城の戦の際、家康公を逃げ惑わせた真田幸村戦死跡と刻まれた大きな自然石の石碑があった。
安居天神の社務所脇の崖下に「かんしずめの井戸」。水は涸れていたが、立派な石組みが信仰を集めた昔を偲ばせる。
この安居天神から増井弁財天の境内にある増井の清水に向かったのだが、ここはフェンスの外から石碑がみられたのみ。
そこから北に歩いて先程の清水坂を過ぎ、その水質比類なく一種の甘味を帯びて殊に茶の湯に愛されたという泰聖寺の金龍水・銀龍水を訪ねると、道端の小さな崖の下に葢で覆われた井戸が一つ。
どうやら金龍水銀龍水の所在も定かでないらしく、葢された井戸の水も汲めないと思っていると「この先の勝鬘院に行きまひょか。愛染めの霊水がありまっさかい」と浪速っ子。
勝鬘院は、聖徳太子が建立した四天王寺四院の一つ施薬院の後身といわれ、浪速っ子に愛染(あいぜん)さんの名で親しまれているお寺。宝恵駕篭で賑わう愛染祭が大阪の夏祭の幕あけで、境内に聳える多宝塔は大阪市内唯一の桃山時代の遺構。
<勝鬘院・多宝塔>

愛染坂の上にある山門の傍らの井戸屋形の内に「この井水を飲めば愛染明王の御本誓により愛念をかなえ病癒え善運を開き給う」という愛染めの霊水があった。
<勝鬘院・愛染めの霊水>

ところで先程の天神坂の碑にあった「天王寺の七名水」。地元の天王寺区役所が七名水にあげるのは亀井・逢坂・玉手・安井・増井・有栖・金龍の七つの名井泉で、このうちの玉手水は四天王寺の南にある一心寺の西下にあったものとされており、清水寺の玉出の滝とは別物。
ただ跡形もないもの涸れたものが多く、玉出の滝や愛染清水、本清水、岸の水などを七名水に数えることがあるのを幸い、水のある旅のタイトルを「天王寺の七名水」とさせてもらった。